石船神社の例祭である岩船祭は、毎年10月19日に本祭りを迎えます。絢爛華麗な9台の祭礼屋台おしゃぎりが港町・岩船を練り歩く勇壮な祭りです。
祭りの起源は明らかではありませんが、中世(1558~1570年頃)の記録「色部氏年中行事」にはすでに石船神社の祭礼についての記述が残されており、古い歴史に彩られた伝統を今に伝えています。
お祭りを担う人々
岩船の祭りには、世代に応じた役割分担があり、町全体で伝統を引き継いでいます。乗り子から若連中、警護役、当宿。 それぞれが役目を担うことで、伝統の祭りは今に受け継がれています。
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乗り子
お囃子方。中学2年生までの子供たち。10月上旬から毎夜「笛吹き」の大人の指導で伝統のお囃子を稽古します。
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若連中
おしゃぎりの曳き手。中学3年生から50歳前後まで。かつては男性だけでしたが、近年は女性も参加しています。
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警護役・役員
若連中を卒業した大人たち。氏子会や町内役員として、祭礼全体の運営や屋台の警護を取り仕切ります。
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当宿
屋台の当番となる家。祭礼期間中の屋台管理の重責を担い、一代に一度の晴れの大役として名誉ある役割です。
法被に込められた思い
祭りの数日前に配られる「法被」には特別な意味があります。特に町内の代表である「会長(頭取・組長)」の羽織形の役法被は、岩船の男なら一度は袖を通すことを夢見る憧れの象徴。
法被が人を選び、人を造り、先輩から後進へと大切に受け継がれています。
本木遣り
ソーランヨー ヨー ヨー ヤーナー ハーリャーリャー ハーリャーリャー ハーリャ ヨーイトセー
祭礼行列が出発する直前、すべてのお囃子と太鼓が鳴りをひそめる中、紋付羽織姿の衆(木遣り上げ)によってお御輿に寿ぎの木遣りが奉納されます。
ハーヨー ソーランヨー
あたりに響き渡る高音の美声と独特の節回し。それに若連中の太い声が重なる「木遣り唄」は、聴く者の心に深く沁み渡ります。唄が終わるや否や、再びお囃子と太鼓が打ち鳴らされ、いくつもの音が重なり合って絵巻物が動き出すような、岩船祭りの醍醐味が凝縮する瞬間です。
げにや目出度き神代の昔
げにやめでたき かみよのむかし
蜻蛉洲に宮始まりて
あきつしまに みやはじまりて
縁起詳しく尋ねて聞けば
えんぎくわしく たずねてきけば
言うも愚かや辱なくも
いうもおろかや かたじけなくも
天の水罔の御神とかや
あまのみずはの おんかみとかや
天の磐船波間に浮かべ
あまのいわふね なみまにうかべ
藍の艫綱 桂の舵に
らんのともづな かつらのかじに
瑠璃の帆柱 珊瑚の櫓櫂
るりのほばしら さんごのろかい
綾や錦の帆を捲き上げて
あややにしきの ほをまきあげて
これの渚へ漕ぎ寄せ給い
これのなぎさへ こぎよせたまい
四方の景色を御眺められ
よものけしきを おんながめられ
並びあらざるこれ一なりと
ならびあらざる これいちなりと
ここに鎮まりましますとかや
ここにしずまり ましますとかや
今に残りし一つの岩も
いまにのこりし ひとつのいわも
世世に朽ちせぬ御船の形
よよにくちせぬ みふねのかたち
すぐに栄いし所の名をも
すぐにさかいし ところのなをも
動ぎ揺るがぬ岩船町の
ゆるぎゆるがぬ いわふねまちの
四方のかまどの末広がりて
よものかまどの すえひろがりて
四海波風治まる御世は
しかいなみかぜ おさまるみよは
枝を鳴らさぬ竹も年栄え
えだをならさぬ たけもとしばえ
どっとこ木遣り
本木遣りと比べ、強い調子の木遣り唄です。おしゃぎりが走り出す前や、皆で力を合わせて動き出す前に唄われます。
ソーランイェーサン めでたのヤァーエー
(ヤストコエー ヨーイヤナー)
めでたの大明神だニ ヨーイトナー
(ソーラーイヤー ハリャリャリャリャ ホイ ヨーイトコー ヨーイトコナー)
島の始まり 島の始まり淡路の島だ
国の始まり 国の始まり大和の国だ
柱は 柱は白金黄金のへみをこくませたまいて
ここは穂山の ここは穂山の大和の錦
やがたを見て来い やがたを見て来い 祝いめでたの明神丸だ
明神丸は 明神丸は面舵取り舵効き合わせて
明神丸は 明神丸はともやまかけた
明神丸は 明神丸は盤木に乗せかけ
明神丸は 明神丸は盤木に乗せた
ソーラーイヤー ハリャリャリャリャ ホイ ヨーイトコー ヨーイトコナー
呼び太鼓
朝の集合時や、おしゃぎりの待ち時間に打たれるリズミカルな太鼓。
一番始めは一ノ宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の惣五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つは成田のお不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山
十で東京心願時
あれこれ心願懸けたのに
浪子の病は治らぬと
轟々轟々行く汽車は
武男と浪子の行き別れ
二度と逢えない汽車の窓
早く帰って来てちょうだい
幻の心願寺
この歌は『不如帰』の筋立てに沿って旅先々の社寺で祈るも浪子の病が治らず、ついに武男と行き違ってしまう―という数え唄として編まれた替え歌でしょう。 その完成のためならば、歌詞を整える都合で「東京心願時」が架空の社寺として作り出された可能性もないとはいえません。
明治初期のわらべうたの旋律に、どういう経路で岩船の祭囃子(はやし)へと結びつき、今に伝えられたのか。幻の心願寺とともに、その謎もまた歴史の霧の中にあります。
歌の由来
岩船祭の呼び太鼓として親しまれているこの歌は、原曲が明治初期に流行したわらべうたです。
歌詞の数え歌の部分は、明治31〜32年に徳冨蘆花が国民新聞に連載した『不如帰(ほととぎす)』の筋立てに沿っています。同作は大山巌元帥の娘信子の肺結核により三島通庸の息子との縁組が破談になった事件をモデルにしたとされ、明治屈指のベストセラーとなり、数多くの演劇・映画の原作となりました。
同じ旋律は1990年のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』最終回で田中裕子演じる西郷いとが別の歌詞で口ずさむ場面にも登場し、その広がりを感じさせます。
お祭り時系列
※時間はおおよその目安です。進行状況により前後しますのでご了承ください。
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17日
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お囃子披露 夜17日の夜には、当宿に乗り子の子どもたちが集まり、お囃子が披露されます。祝い酒が並んだ床の間の前に、飾り物や見送りが据えられ、ご近所の人たちが集まって見守ります。帰りには子供たちに、当宿からお駄賃がふるまわれます。 |
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18日
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宵祭り試し曳き家々が紅白の幕や家紋入りの門提灯で彩られる中、正装したおしゃぎりの試し曳きが行われます。 宵宮参り「盆正月には帰らなくても、お祭りには帰って来る」と言われる岩船。夕暮れ時、遠方から帰省した家族も揃って正装し、幻想的な灯りに包まれた石船神社へ参拝に向かいます。 |
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19日
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本祭り先太鼓 0:0010月19日早朝、日付が変わって間もない真夜中。張り詰めた空気を震わせるように、岩船祭の始まりを告げる「先太鼓」の鉦と太鼓の音が響き渡ります。 「てれつくでんでんずっでんでん てれつくでんでんずっでんでん」 柳を削った細く長いバチをしならせ、それぞれの願いをかけて丸一昼夜奉仕する先太鼓の一行。彼らが神の通る道を祓い浄めるその音に、岩船の人々は逸る心をなだめながら、夜明けとともに始まるおしゃぎりの巡行へと備えます。 漁師の船迎え漁師たちは船の舳先にご馳走を並べ、神酒をささげて柏手を打ちます。海上安全と大漁を祈る「船迎え」。海とともに生きてきた人々の素朴な信仰です。 呼び太鼓
当宿に法被姿の若い衆が集まり、座敷に納めた飾り物を再びおしゃぎりに飾り付けます。それが終えると子供たちが乗り込み、呼び太鼓打ち始めます。 宮詰めと明神橋 7:00
明神橋の角で向きを変えると、正面に神社の鳥居。 御魂遷し 7:30
神社に詰めた岸見寺のおしゃぎりから、祭りのシンボル「明神丸」(お船様)が下ろされ、岸見寺の若連中の肩に担がれます。 木遣り奉納 8:30
お御輿は招魂社の「(第一)お旅所」に入られます。 お旅所で昼休み 12:00
神社を発った行列は下大町、上大町、上町、横新町、中新町、縦新町と巡り、お昼過ぎに縦新町のはずれの「(第二)お旅所」でお御輿と御神馬が休憩。曳き手・乗り子も昼の「ままあがり」となります。 祭りの夕暮れ 18:00
昼休みを挟み、新田町から上町に入る頃には秋の日が傾き、おしゃぎりに屋台提灯が灯されます。 地蔵町から浜回りへ 20:30
巡行は終盤に差しかかり、下浜町から岸見寺、地蔵町の狭い通りへ進みます。 地蔵様の角 21:00
おしゃぎりがやっと通れるほど狭いT字路を直角に曲がる難所「地蔵様の角」。 とも山神事 21:30
岸見寺と横新町のおしゃぎりは、巡行を終えても町内へ帰らず、神社に向かいます。 あんりょうがけ 23:00
祭の幕引きを惜しむように、ゆっくりと奏でられる「帰り囃子」に合わせ、おしゃぎりは当宿へ向かいます。 当宿での締め 24:00
当宿で最後の「帰り囃子」の演奏が終わり、子供たちへ拍手が送られます。片付け後の一杯の味噌汁が疲れた身心に染み渡り、帰宅後はそのまま泥のように眠りへ。 |
女衆に支えられた、
かつての岩船祭
おしゃぎりが近づくと、家々では酒肴を用意します。行列に同道する親戚の叔父さん、ご主人の知人、初対面の若い衆まで、次々に「おめでとうございます」と挨拶してやって来ます。
玄関先で盃一杯の酒を戴く人、ずかずかと上がってビールをねだる者、トイレに寄ったはずがそのまま居座る者など、一人来ては二人帰り、三人帰っては四人入ってきます。行列が通り過ぎた後も、知り合いの家を欠かさず回る律儀な人もいて、かなり長い間、目の回るようなてんてこまいがくり広げられます。
女衆は前夜から遅くまで下ごしらえ、当日朝早くからごちそうを作り、足りなくなればオードブルや寿司を取り寄せ、熱燗、冷や酒、ビール、水割り…と注文を並べる男衆を相手に走り回ります。
「一年の稼ぎを十三で割って、一ヶ月分は祭りに使う」大袈裟とも思えますが、あながち嘘とは言えません。
「岩船祭は無礼講」とはよく言ったもので、参加資格を得た者にとっては正にその通り。他の地域からも「岩船の衆は熱の入れ方が違う」と言われ、町の人々も何よりの自慢にしています。
「嫁に来て何十年、おしゃぎりを満足に見たことがない」「祭なんか無ければいい」とぐちをこぼす女たちこそが岩船祭の本当の主役。
「おらごの父ちゃんもせがれも祭り馬鹿で、毎晩のように家を空けて」「何十人も客が来て、酒もご馳走もいっぱい、はやってしもて」文句の奥には、男とお祭りを支えているのは自分たちだという自負と誇りがにじんでいました。
このように、かつての岩船祭は女性達の献身によって支えられてきましたが、今では女性も楽しみながらおしゃぎりを曳いたりと、時代とともに関わり方も変わってきています。
ご祝儀と返礼
町の人々はおしゃぎりにご祝儀を上げ、自分の町内の他にも、親族の町内や知人が役員の町内へと祝儀をはずみます。
全町内に祝儀を上げる家も珍しくありません。祝儀を戴いた家へお囃子で礼を返すのが習わし。岸見寺は「木遣り」、惣新町と下浜町は「もみだし」、その他は「通り囃子」。
屋台も人も右に左に大きく揺れ、酒に酔い、囃子に酔い、人の情に酔って行列は進んで行きます。
