石船神社の祭神
石船神社にお祀りされる祭神は、四柱です。
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饒速日命
ニギハヤヒノミコト物部氏の祖先神とされる太陽神。磐樟舟(いわくすぶね)に乗って岩船の浜に降臨されたと伝えられる。
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水波女命
ミズハノメノミコト貴船明神より勧請された、水を司る神。
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タカオカミノカミ
貴船明神より勧請された、水を司る神。
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クラオカミノカミ
貴船明神より勧請された、水を司る神。
饒速日命は、磐樟舟(いわくすぶね)に乗ってこの浜にお着きになったと伝承されています。
罔象女命以下の三柱は、京都から勧請された貴船明神の神々で、水を司るとされます。その理由は、神社境内の清水が湧き出ていることにちなむとの見方が有力です。
参道の石段を登る中ほどに清水が湧いており、神泉として今も大切に守り継がれています。あるいは、饒速日命が本来太陽神(転じて火の神)であったことから、水の神を合祀することで陰陽を調和させたのではないかとの推察もあります。
古く「石船(いわのふね)」と唱えられた神社の名が、貴船明神の合祀を経て「貴船(きのふね)」と移り変わったこと。石と木、火と水という、対照の妙を凝らした転換とあわせ、興味の尽きない神社の歴史です。
県指定文化財
石船神社の例祭である岩船祭は、昭和63年(1988年)に新潟県無形民俗文化財に指定されました。
また、神社の境内には、長い歴史と自然が今に息づいています。社殿の裏手に広がる椿林の社叢は、昭和33年(1958年)に県指定文化財(天然記念物)に指定されています。
神社の歴史
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807
大同2年
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貴船明神の勧請
大同2年(807年)、北陸道観察使・秋篠朝臣安人が地方視察のため当地に下向された際、京都の貴船町より「貴船明神(きふねみょうじん)」を勧請され、石船神社に合祀したうえで社殿を建立されました。
このため中世には、この神社は「貴船大明神(きふねだいみょうじん)」の号で呼ばれていました。 |
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927
延長5年
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『延喜式』の式内社
927年に成立した国の古書『延喜式(えんぎしき)』の「神名帳(じんみょうちょう)」という巻には、当時の全国の主な神社3,132座が記載されています。現在では所在地が不明になった社もありますが、今に伝わる神社は「式内社(しきないしゃ)」と呼ばれ、由緒ある神社として崇敬を集めています。
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1714
正徳4年
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正一位の神階を授与石船明神へと複合し、宣旨により正一位(しょういちい)の神階を授与されました。中世以降は平林城主、そして歴代の村上藩主の崇敬が篤く、神領の寄進や社殿の修復が何度も行われてきました。 |
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1872
明治5年
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新潟県で最初の県社に加茂町(現・加茂市)の青海神社とともに、「両社ハ当管下 式内社内に於いて最確然且社殿地景共 他社の比類ニ無御坐候」として、新潟県下で最初の県社に列せられました。 |
磐舟柵と石船神社
磐舟柵を治り、以て蝦夷に備う
岩船は海とともに発展してきた歴史ある町です。 城下町として栄えた村上地区に対し、岩船は漁業と海運を中心に栄え、江戸時代には日本海を往復した北前船が寄港する港、南北に通じる街道の要衝として発展しました。
歴史は非常に古く、奈良時代の歴史書『日本書紀』には、648年に朝廷の命令で蝦夷に対する最前線基地「磐舟柵」が築かれる前すでに石の小祠が祀られていたと伝えられています。柵が作られてより1300年を経て、今なお住民に篤く信仰される「石船(いわふね)神社」の、原初の形です。
地名の由来
この「岩船」という地名の由来には、興味深い2つの説が存在します。岩船の地名には、はるか昔の歴史ロマンが秘められています。
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町の伝説
町に伝わる伝説で、神様(饒速日命)が磐樟舟(いわくすぶね)に乗ってこの浜にお着きになったといわれています。
神様が宿をお求めになったとき、町の人々は鮭のすし作りに忙しく断りましたが、お産が始まる一家だけが泊めたという伝承が残っており、祭礼がお産と重なっても避けない風習があるのはこのためです。 -
地形説
歴史研究家・長谷川先生の調査による説です。
全国の「岩船」とつく場所の多くは、船の形をした岩や山が由来になっています。
石船神社がある「明神山」も、海から見るとまるで海へ漕ぎ出そうとする巨大な船の形をしており、航海の目印として船乗りたちに親しまれてきたこの地形こそが、本来の地名由来と考えられています。
現在の岩船
岩船の周りに広がる水田は、江戸時代ごろまで岩船潟(別名 琵琶潟)と呼ばれる大きな入り江でした。海と潟の境目に生まれた集落が、現在の岩船町の起こりです。 荒川が流れ込む広い沼地は長い年月をかけて耕され、現代の美味しい「岩船産コシヒカリ」を育む広大な田畑へと姿を変えました。
